原作@ちぇいさー

どうも最近「原作ファン(あるいはオタク)」がアニメーターの作画の個性(あるいは乱れ)を許さないということについて議論が活発なようです。こくぇももが書こうと前の記事で言っているのに先取りして書いてしまおうと思います。ごめそ。


散々言われていることではありますが、昨今のファンの原作重視はメディアミックスが産み出した弊害だと思います。
メディアミックスにおける「アニメ化とは原作の売上を伸ばすための手段である」という考え方がアニメ独自の設定や表現を極力控えさせるように製作側を拘束してきたのは事実でしょう。
そしてそれを逆手に取ったのが京都アニメーションです。
自らの個性を押し殺して原作を忠実に再現し、その結果として原作オタクらから好評を受け、メディアミックスとして最高の成果を上げました。
その再現する努力はもちろん評価しなければいけませんが、アニメーターの個性を押し殺すことが業界全体で本当にプラスなのかという疑問もわきます。
昨今の同人誌文化の繁栄は個性の抑圧に対する反発なのかもしれません。


小説のアニメ化として比較対照に2つ挙げてみます。


1つ目は涼宮ハルヒの憂鬱同様、メディアミックスとして作り上げられた「住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー」です。
しかし、これはハルヒとは異なり、原作とは一線を画しています。
原作第1巻の結末にインパクトを持たせるために話の時間軸まで変更したハルヒに対し、アニメ版「ドッコイダー」は原作とは全く異なっています。
また、ハルヒではアニメ版オリジナルストーリー「サムデイインザレイン」においても原作者の谷川流に脚本を任せるほど原作者と関わりが強かったのに対し、ドッコイダーでは原作者が作品にはノータッチ、設定変更には逆に喜んですらいました。
タイトルに新たな一文がついていることもメディアミックス作品では珍しいことだと思います。


このドッコイダーも原作ファンのみならずアニメファン全体から大好評を受け、製作のユーフォーテーブル知名度も大きく上がりました。
のちにユーフォーテーブルは同様に原作を無視した「ニニンがシノブ伝」「フタコイ オルタナティブ」を製作し、オリジナリティあるアニメ製作会社として名が知れ渡ることになります。
ユーフォーテーブルは原作に忠実である京都アニメーションの対極に位置していると言えるのかも知れません。


もう1つの小説のアニメ化として挙げたいのは、メディアミックスでない作品「京極夏彦 巷説百物語」です。
原作は京極夏彦氏の直木賞も受賞した巷説百物語シリーズです。
このアニメも前述のドッコイダー同様、原作者から設定改変の許可・推奨をもらっています。
そしてアニメでは中性的な主人公を新たに用意することで小説版とは違うテイストを作り上げました。
一方で京極亭の声優に京極夏彦氏本人をあて、原作者との関係が強い点ではハルヒとの共通点も持てます。ただし、繋がっている場所に関しては大きく異なっているように感じます。


この作品に対する一般の評価は存じていませんが、自分が観た限り、アニメならではの世界観・表現技法を使った独自性のある作品として良い評価を与えられるのではと考えています。


どちらの作品も原作と一定の距離を保ちつつ、独特の味わいを持った作品であることは確かです。アニメと原作との立場をどうあるべきかの結論を出すことは難しいですが、「文化として認められるためには「〜ならでは」の要素が必要である」ということはマンガが文化として認められていった歴史において証明されています。


ちょこッとSister」の作画が荒いのは分かりますが、原作と違ってちょこからの視点で描かれていることを評価する人もいます。
「NHKにようこそ」の作画が荒いのは分かりますが、批判している人は作画の荒さと表現技法とに共通点のある「マインドゲーム」を知っているのでしょうか。
やはり、作品性とエンターテイメント性は相反するものだと思います。作品性を高めようとするとエンターテイメント性が邪魔をするのは分かっていただけたと思います。


時代を変える作品というのは、こういったしがらみから解かれた「アニメが原作」のアニメだけなのかもしれませんね。