「負け組おんらいん」 @お子様

4月から職を変えた。
命を救う世界から、社会にとっての空気になることを選んだ。
畑違いの仕事。
一番大きな変化は、「教える」が「教えられる」に戻ったことだろう。




新人教育は二人失敗している。


誰一人として同じパーソナリティの人間はいない。
脳の損傷によって生じる障害も、同じパターンは存在しない。
臨床をルーチンワークにさせないために、常に思考と試行を繰り返せるセラピストになってもらいたかった。
命を救う最善の選択肢をとってもらいたかった。


答えを教えることは極力避けた。
もちろん1回目は答えを教える。答えに行きつくための考え方、その思考の背景となる図書・論文も提示した。
2回目以降は、どこまで考えたかを聞いた。ヒントも出した。
3回目以降は、怒ってしまった。
命に関わる問題に対しては怒るべきであったが、この指導スタイルは短気過ぎたのだろう。
育つことなく、ただ、逃げられてしまったのだ。


マンパワーの少なさであったり、元々の能力であったり、仕事に対する価値観であったり、私自身以外にも因子はあったのだろう。
課長からも「本人が伸びようと思わなければ伸びないんだよ」と、指導内容を支持してもらえたこともあった。
けれど、失敗は失敗だ。
おそらく、私は相手を怒りすぎた、というよりかは「否定」しすぎたのだ。


「否定」について考える。
母は否定から入る人間だ。否定され続けて育ってきたとまでは言わないが、褒められたい時に別のことで叱られた記憶は強い。
「否定」は辛いけれど、自分を伸ばしてくれたように思う。
「否定」を肯定に変えるために自分は成長してきたように思う。


答えを教え続けることのメリットは何だろう。
紋切り型で患者を捉えられては困る部分は多い。
答えをかき集めて、帰納法のように何かを考えられるようになるのかもしれない。


ここまで経験をしておいて、私はまだ「否定」を否定しきれない。
「否定」を乗り越えるのでなく、何が人を成長させるのだろう?
目標か?責任感か?問題意識か?
ダメな人間を、育てるためにはどうすればいい?