ダイアリーブックとかいらないんだけど@コクェモモ

俺の所属するサークルでは、一年生を中心に運営した文化祭企画も無事終了し、2週間後には定期演奏会が控えている。
普通の音楽サークルにとって、定期演奏会は一年を通じて最も大きなイベントの一つである。そして終わった後は、大学サークルの『常識』として、飲み会がある。俺は座右の銘の一つとして『酒は不味い。他人と飲む酒はもっと不味い』を持っているので欠席を担当者に伝えた。先日集計結果を小耳に挟んだ所、欠席者は100人中2人だそうだ。いつものことなので、もはや後悔の念など微塵も起こらない。



こんなダメ人間(少なくとも周りから見ればそうだろう)になってしまったきっかけは何だったのだろうと記憶を掘り返してみると、小学校低学年の頃のちょっとした出来事が頭に浮かんでくる。そのときクラスの連中はプロ野球の話題に花を咲かせており、流れとして、どのチームのファンかと質問されたのだった。俺は野球のことなど何一つわからなかったから、生返事の否定を返した。だが質問者はそこで会話を終わらせず、「じゃあ中日のファンになれよ」と言ってきたのだ。ひどく居心地が悪かったのを覚えている。恐らく、こいつらは頭が悪いんだな、とか思ってたんではないだろうか。なにしろ、勧められて特定のチームのファンになるという感覚が全く理解できなかったのだ。今も出来ないけど。…なんにせよ、小学校低学年の時点で芽はあったようである。
飲み会に全く参加しないといった態度は自慢できるものでないことはわかっている。きっと出世も出来ないのだろう。だが今更変えろといわれても難しい。
ただ、文化祭中には、今回の打ち上げなら行ってもいいかなと思っていたのだ。ところが企画最後のステージ(企画の内容は、いろんなグループが歌を歌っているなかで喫茶店をやるというもの。一日の終わりには企画の主運営者である一年生たちが、この日のために練習したいくつかの曲を演奏することになっている)に酷く失望してしまい、結局不参加だった。
演奏自体が酷い内容だったわけではない。問題は演奏の前の指揮者による曲紹介である。友愛と平和を謳う曲では「今、隣の国では核開発が…」、喪失と悲愁の曲では「この曲は『哀しみ惜しむ』と書いて『哀惜』を表現した歌なんですが、アイセキという単語にはもう一つの漢字があって、それは『愛』の字を使って『愛惜』と書くんですね。それで…」
これらを聞いて俺はもう全くやる気がなくなり、はっきり言って適当に歌った。個人的な心情次第で手を抜くのは三流の演奏家だとは思ったが、いかんせんステージがすでに三流である。
伝えたいことがある、でも文面では足りないと思った、だからこそ歌っているはずなのだ。演奏の直前に自演自解を行うなど、演奏の拙さへの予防線であり、敗北宣言ではないのか。それは演奏自体がどんなに素晴らしかろうと、ステージを陳腐にしてしまう(同じような理由で「拙い演奏ですがどうぞお聞きください」も大嫌い)。
サークルの目的が、単に集まって仲良しごっこをすることか、精々が陳腐な自分語り(おお、まるでmixiみたいだ)なのならば俺が所属し続ける動機はないし、その目的の象徴みたいな飲み会に参加するわけにもいかなかった。
…ところでこの文章をサークルの人に見られたら本格的に居場所がないな。簡単に書き手を特定できるし。むしろ辞めるいい機会になるかもしれないが。