オッカムの剃刀

http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20071028
とりあえず、朋也がバスケに来ない話は2話です、確か。
えーと、そりゃアニメの出来がCLANNADとefでどっちがいいかって言われたら後者に決まってるんですが、映像の強度とか鋭さとかの概念を持ち出さずとも、脚本の問題に帰着できる気がします。無論、脚本が他のスタッフから独立した一人の手で書かれてるってわけでもない上、アフターストーリーにどれくらい割くつもりか、とか、さらにスタッフの根本的な作品解釈の話*1も関わってくるんで多少ややこしくなりますけど。
いや、つまり僕はこの「ゲンサクニチュウジツ」な脚本の酷さをひとまず言っておきたいのです。渚が朋也をバスケに誘うシーンから雨のシーンまでは、原作渚ルート4月18〜19日に該当しますが、まあ、やってみると分かります。アニメ版脚本の雑さが*2


http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20071031#1193801271
突っ込みありがとうございます。勉強になります。
ストーリーの因果の厳密性とかは僕も比較的どうでもいいと(どころかちょっと欠けてるくらいが丁度いいとすら)思ってる(はずな)んですけどねえ。
脚本もテンポの構築にある程度関わってはいるはずで。まあ「脚本の問題に帰結させられる」は確かに明らかな過言でそこはごめんなさいなんですが。


頑張って書き損ねたことを補ってみる。
この脚本は言ってみれば「尺の中にイベントを詰め込む」以上のことを考えていないように見えるというか、むしろストーリーの因果だけ抜き出そうとした結果こうなってるように見えます。
原作のシーンと一々照らし合わせて比較するのってそれこそお前が原作厨じゃんって話ですが、対応があからさまに分かるようになっているからたまたまそれを自分に許しているだけであって、ココが原作と違うからダメなんだ、などといいたいわけでは絶対ないですよと前置きしておいて。
原作では、春原の『おまえ、部活してる連中なんて、吐き気がするほど嫌いだって思ってたんだけど』という発言をきっかけに、夕方の公園で朋也は、以前はバスケ部にいたが怪我が原因でやめてしまったことを告白します。そして翌日の朝、渚は朋也をバスケに誘うわけですが、この時点で空は曇っており、彼女の厚意の結果を暗示しています。アニメ版では、バスケ部の話(ただし怪我が原因であることはこちらでは隠されています)だけでなく渚のバスケの誘いも一緒に夕方の公園のシーンで行われています。
また、アニメ版ではなにげなく流される「わたし、これでも運動神経いいんです」という台詞は、原作では

古河「わたし、バスケットボール持って、待ってます」
浅はかだった。
朋也「馬鹿か、おまえは」
古河「わたし、これでも運動神経いいんです」
朋也「そういう意味じゃなくてさ…」
古河「下投げなら、シュートだって打てます」
古河「ドリブルも、立ったままならできます」
朋也「………」
朋也「…それ、運動音痴だぞ」
古河「あれ?そうなんですか?」
朋也「そうだよ…」

という流れの中にあります。
もちろん脚本におこすに際して何かが失われ(この単語自体が原作至上主義を前提にしちゃってるみたいで気持ち悪いけどほかに表現が思いつかない…)ること自体は不可避なんですけど、失われたものに自覚的であるように見えないというか。
アニメ版なりの流れを作ろうとか、台詞を練ろうという意気の見えない脚本が完成した映像のテンポの悪さの一要因なんじゃないかなーと。もちろん演出の問題もそれはそれであるして。


つーか大事なことを書き忘れてる気がするぞ。
「鋭さ」と「強度」って結局一体なんなんだろうってことですが。
いや気分としては分かるんですよ。でもちゃんと定義されてない概念を用いて話を進めても混乱するだけですし。
実は割と常識的な言葉だったりするんでしょうか。ありそうだなあ。

*1:原作は、春原の部屋に始まり、春原の力によって駆動し、どっかよくわかんない場所でよくわかんない力によって終わる話だと言えるわけだが、それについては?また、「家族」というテーマと麻枝准の作家性との相性の悪さについて、とか

*2:それに比べて、ギャルゲーであることの呪縛から解き放たれた劇場版のまともさといったら!