誰かカウンター復活させといてよ@コクェモモ

Twitterで、おお俺いいこといったんじゃねと思ったpostを転載する(またか)。

さてここでARIAアニメ版はクソだ、という話をして何人の賛同が得られるか。

普通にアニメ版の背景は手抜き…とは言わないけど少なくともARIAをアニメ化するにあたってかけなきゃいけない労力はかけてない。背景が主人公みたいな話なんで。

ARIAアニメ最終回で違和感を感じたとこをまとめた記事。http://d.hatena.ne.jp/gccbbs/20080326

原作を読んでいてかつアニメ版が好きだといえる人はこの辺にどう折り合いを付けているのか不思議でしょうがないんだよなあ。

原作つきアニメをどう批判するかというのは難しいところではあるのだけど、ここまで原作を読めてないというのはちょっと。しかもこれで多分ちゃんと読めててかつそれに忠実に作ってるつもりなんだろうなあというあたりも含め。

最終回の季節を晩秋に変更した理由はおそらく「別れと成長」を演出するためであろうと予想はつくのだが、うーんそれはやっぱり台無しでしょうと言わざるを得ない。

ずっと続いていく何か、というのはそうなのだけど、アニメ版ではその営みってキャラ依存なんだよね。だから季節を簡単に変更できる。原作ではむしろARIAカンパニーそしてアクアという場に依存しててそれが一番肝心なところなのにキャラ依存にしちゃうのは矮小化でしょうというのが大枠かなあ。

「グランマやアリシアさんのようになりたい」って言わせるだけじゃ足りないはずなんですよ。師の背中でなく師の背中の向こう側にある景色を見ること、灯里がアクアに来て覚えたことっていっそそれだけだと言ってもいいのに。

灯里って技術的にはアクアに着いた時既に完成されてたって言っていいんじゃないかなあ。たかが逆漕ぎの癖を直す程度のことですよ。んでそれはつまり一緒に乗ってる人が見ているのと同じものを見る、その人の背中の向こう側の景色を見るってことに繋がってるんだよね、という話だと思ってるのだけど。