少女漫画と同性愛―山岸涼子萩尾望都

少女メディア研究の講義レポート七回目。
テスト前日でこんなの書いてる場合じゃないよ!



山岸涼子の同性愛観

異性愛=相手が自分と異なるからこそ愛する⇔同性愛=相手が自分と同じである(近い)からこそ愛する
屈折した母への愛→近親相姦、兄弟愛
同性愛に限らず、人の本質としての他者性(外見を裏切る内面性)をテーマ→近代小説の王道


アラベスク』におけるセクシュアリティ

バレエ漫画として当時の王道を踏襲してスタート。
誰にも発見されなかった才能をコーチだけが見出す→コーチと恋に落ちる(異性愛作品としてのプロット)
しかし『ゲッシング・ゲーム』と同時進行で作品を描き、ゲッシング・ゲームのほうから同性愛的手法を見出す。
王道を外れた少女の純粋な愛(性要素の排除)へと路線変更。

ユーリの無能

少女マンガにおける典型的な男主人公であるにもかかわらず影が薄い←作者がこういったキャラを描くのが上手くない?
ユーリは恋の成就相手であると同時にバレエの上手さを決定する基準。

異性愛の成就を阻む要素

異性愛の成就=バレリーナとしての完成 としてのプロット
恋(=バレエ)のライバル・・・ラーラ←天才、ヴェータ←ノンナの劣化コピー
妨害要素≠恋のライバル・・・エーディク、カリン←レズ
エーディク、カリンがでてから異性愛プロットからの脱却が本格化。

ユーリの役割的死亡

グランプリをとるためにカリンに性的に成熟するように仕向けられるノンナ。←レズビアンによって異性愛のゆさぶりをかけられる。
しかしノンナは性愛を拒絶。そしてグランプリを獲得。
コンクールのクライマックス「蒼ざめて透明な真のロマンチックバレエ」→無性の少女漫画世界の完成。
異性愛はありえない=ユーリの役割的死亡。
それを裏付けるようにコンクール後、カリン(=作者)によって銃で撃たれるユーリ。


少女漫画における異性愛至上主義の終焉(否定)→同性愛ものの隆盛?


萩尾望都の同性愛観

同性愛が異性愛へといたる発達段階、少年少女の未熟で透明なエロス。
性愛の代替。:「ポーの一族
永遠に遅延された性的未熟。吸血鬼(スペルマティックエコノミー?)のエロス→性器接触至上主義の否定。


トーマの心臓

トーマの「心臓」というタイトル=贖罪の死によって同性愛の痕跡を永遠に残す。

『聖書』とのかかわり

ユーリ=ユダ  トーマ=イエス  エーリク(トーマに瓜二つ)=復活したイエス
トーマによる身代わりの死→トーマからユーリへの単性生殖
(でもキリスト教的に自殺ってどうなんだろう)


まとめ?

花の24年組は現代のBLとは異質。
少年という立場は、青年や少女と比べ誰でも自己投影しやすい立場。



さて、梅酒を今年も作ってくるか・・・