少女マンガの源流のとしての高橋真琴〜コマ割の変化と瞳の表現をめぐって

少女メディア研究の講義レポート十回目。
来週の講義が最終講義、その次は期末テストです。wktk。


高橋真琴以前の少女マンガ

4段3コマの規則的なコマ割(少女マンガに限らず少年マンガでも同様)。
コマの枠から絵がはみ出たりすることも稀。はみ出しても足や剣先などごく一部のパーツのみ。
それらの例外としてオオトモヨシヤスが挙げられる→見開き、数コマに渡る人物=少女の服装、全体像を見せるスタイル画絶望先生でよく見られるアレ)。


高橋真琴の登場

のろわれたコッペリア

ページの中心に置かれ、画面全体に及ぶ人物像(大きな少女像)。
トゥシューズに画鋲(講師が確認できる範囲では最古)。
絵物語的に描かれており、このようにしたほうが限られたページ数を効率的に使えると著者が判断した。

あらしをこえて

スタイル画の本格的な登場。キャラクターがコマの上に重なることを介さない。
「画面全体をイメージで統合する象徴的な人物画」手法。
「同じページに次元の異なる絵を重ねて描く」手法→少女マンガに特徴的なレイヤー構造。


高橋真琴のこれらの手法は少女マンガに劇的な変化をもたらし、一年強の間に多くの少女マンガで取り入れられるようになり一世を風靡。画面中央にスタイル画を持ってきて物語の流れを切ってまでスタイル画を取り入れている作品があることを考慮すれば、いかにスタイル画を用いることを作家と読者が望んでいたかがわかる。

以降のスタイル画

楳図かずお・・・高橋のコマ割の手法を研究して「母よぶ声」を描いた。
牧美也子・・・コマの枠を取り払ったスタイル画。人物をページ全体に敷いて浮きゴマをつくる。コマに内包されたコマ。


マンガの「マンガはきっちりコマを割って描くもの」という前提が崩れ、少女マンガのコマ割自体を買えたということに注意。


少女マンガと少年漫画の表現の違い

少年マンガ・・・コマを割って映画的な「動き」を表現
少女マンガ・・・グラフィックを優先、見開き単位のデザインでムードを表現
 言葉が多く、言葉によってストーリーを説明、絵はムードの演出に特化。


24年組以降

ポーの一族

全体を統合するイメージに人物だけでなく風景を使用。
半分すける人物・・・外界が遠くなっている心理状態の現れ
人物の頭を延長したコマ(コマ枠が取り外されている)・・・内界に没頭し、外界に意識がいかない心理状態
枠線の消失→枠線の登場の流れ・・・内界から外界へと意識の焦点が移ったことの表現
これら多層的に重ねられたコマ構造によって外界(現実)より内面(心理)世界が優越している状態がイメージとして表現される。


24年組以降少女マンガはキャラクターの内面を描くものが中心に。
少女マンガ=登場人物の内面に読者を引き込むことに長けたメディア、作者の描く内面世界への「共感」を基礎とするメディア
「同じ感覚」、「同じ感情」を「共有」しているという感覚がその作品や作家への愛着を生む。
少女マンガ=内面世界との共感⇔少年マンガ=外界とのやりとり という対比。
少女マンガは「作家名」を覚え、少年マンガは「作品名」を覚える傾向←作者に共感しているというところに由来する*1
90年以降は「エヴァ」等に代表されるように「少年」「少女」相互の価値観の乗り入れ傾向が見られる。


24年組とその高評価から見るジェンダー

「花の24年組」・・・萩尾望都、竹内恵子、大島弓子+α
少女コミック』、『別冊少女コミック』を中心に活躍。編集者山本順也の存在。
高い「文学性」といわれ、男性書評家から高評価=それ以前の少女マンガの軽視。
コロンブスアメリカ「発見」と同じ構図。内側(この場合は女性やアメリ先住民族)からの語りの無視。
男性書評家による評価≠女性の評価 という性差によるズレ。
男にわからないものには価値がない、という価値観。
(男流)文学論・・・文学は男女共通のものであるはずなのに男性評論家の影響が強い


マンガは「少年マンガ」、「少女マンガ」のようにジェンダー化されたメディア。
特に少女マンガは世界でも稀な「女性の、女性による、女性のための(マス)メディア」
表現技法などの捜索の側面では少年マンガより伝播が強いし早い。
欧米ではマンガは男性向けが中心で女性向けはほぼ皆無だったが、近年日本の少女マンガの普及に従い数を増やしつつある。


少女マンガがジェンダー化されたメディアである以上、その研究がジェンダー問題をふくむことは必然。しかし少女マンガ研究=ジェンダー研究であることを意味しているわけではない。上のコマ割研究=表現論的研究。


少年愛」作品の始まり

萩尾望都「11月のギムナジウム」、「トーマの心臓

厳密には恋愛ではない。
「心の秘密」=自分の分身である相手が持っていて自分にはない、言葉で表せない何か
飛行するイメージ、孤児のイメージ=一つの世界に属そうとしてできない、または抜け出そうとしてできない事の現われ

「JUNE」の創刊

「耽美」。教養主義的傾向。
人間の二重性を描くもの・・・閉鎖空間における規律→人間は規律から抜け出そうとする→エロスの発生、二重性
(例:軍服のエロス)
男×男のニーズがあることの判明。

なぜ男同士なのか

男と女だと決まったパターンになってしまい、予定調和に陥りがち。
対立と葛藤を終始描くことができる。
性差がないためキャラを対等に立たせることが可能。
男性評論家によって「まだ性を知る前の少女たちが実際の性愛は恐いので男と男でシミュレーションしているだけ」という見解が示された時期があったが、子持ちの主婦でもやおいを好むものがいることからこの説の有力性はほとんどない。


やおいの誕生

語源「やまなし、おちなし、いみなし」もともとは同人誌全体を指す言葉。
「らっぽり」のやおい特集(’79年)辺りから変化?
80年代後半「キャプテン翼」の同人誌ブーム(若島津×日向)あたりから「既存のアニメやマンガの男性登場人物同士が恋愛関係にあるという物語を作って遊ぶパロディ同人誌(二次創作)」の意味に。
例:尾崎南「絶愛―1989―」・・・キャプテン翼の若島津×日向から発展したオリジナル作品


受け、攻めの作法

好きなキャラクターは普通「受け」にする。例:「手塚総受け」本(何の手塚かはお察し下さい)
既存作品のパロディであり、受け攻めの作法があることで素人でも参加しやすくなる。←オリジナル「JUNE」の敷居の高さ


BLの成立

BL=パロディでない商業誌、やおい=同人
BLという単語が一般化したのは90年代後半。cf「腐女子」「腐男子」「貴腐人
「パフ」の96年6月号の特集では浸透していない。98年ごろに定着か。


少年愛」との違い

「受け」「攻め」によるパワーバランス

へたれ攻め、強気受け、敬語攻め、やんちゃ受け等、受け攻めにバリエーションを持たせることによって豊かな人間関係の表現。

「男性原理の女性原理への読み替え」の批評性と快楽

やおい少年マンガの少女マンガ的読み替え
ホモソーシャルな関係→ホモセクシュアルな関係への読み替え


永久保陽子「やおい小説論」の重要性

やおい小説が目指しているものはジェンダーの娯楽化

受け攻めのジェンダー構造:容姿の二極化と両義性

一般的に攻めが男性的(端正な顔立ちなど)、受けが女性的なキャラクターであることが多い。
「端正な顔立ち」というのは男性的かもしれないが、「野獣のような顔立ち」と比較すれば女性的であり、受けには男性性、攻めには女性性もさりげなく含まれている。→受け攻めは比較と、その対象で決まるためカップリングが重要。


「読者はそれによって、初めてジェンダーを“男らしさ”と“女らしさ”をロールとして、抑圧を排除して楽しむことが可能となったのである。<やおい小説>とは、性差に象徴される異質性を娯楽として楽しむことを志向するテクストなのである」(p101引用)


まとめ

やおい・BL=一人一人異なっている女性の「抑圧ポイント」に効くオーダーツボ押し器

*1:少女漫画家は少年漫画家に比べて作品を多く描いていることにも由来するんじゃないだろうか。講義中にワンピースが引き合いに出されていたが、尾田栄一郎は実際ワンピースでしか連載を持っていないわけだし、ヒット作品を何本も(2本以上)持っている漫画家は漫画家としてもそれなりに有名な気がする。